今年のお盆休みは、稚内から利尻・礼文を家族でまわってきました。
稚内は、ちょうど今から30年前、私が産婦人科医長として独り立ちしてお世話になった思い出の地です。
私は、北大卒業後、大学で一年基礎を学び、国立札幌病院(現北海道ガンセンター)で一年、
婦人科の手術とがん治療、帯広厚生病院で二年、手術、がん治療、分娩について、
指導を受けました。いずれも手術の名人といわれるトップクラスの先生に直接指導をして
いただくことができたのが、私の大きな財産になりました。
合計五年間の研修をうけて、大学の医局からたった一人で市立稚内病院に配属されました。
稚内から一番近い総合病院は、200kmちかく離れた名寄市立病院です。
しかも冬の稚内はブリザードでしばしは国道が寸断され陸の孤島となります。
このような環境で二年間、ほとんどひとり人で外来、お産、手術をやり遂げた経験は、
私を産婦人科医として大きく成長させてくれました。
同時に、何が起きてもひとりでこなせるという大きな自身に繋がりました。
当時年間300件程のお産があり、さすがに夜のお産は助産師さんたちが気を遣ってくれて、
真夜中に私が呼ばれることは、あまりありませんでした。
しかし、逆に夜中に「先生、来てください!」と連絡が来たときは、お産が難産であるという
緊急呼び出しです。
覚悟を決めてから患者さんの情報をもとに頭の中でいろいろとシュミレーションしながら、
車で二〜三分の距離の分娩室に駆けつけます。
それからはとにかく無事に赤ちゃんが生まれるように必死でお産を取り上げます。
吸引分娩のカップが何回も外れて泣きそうになったこともあります。
そしてやっとうまれた赤ちゃんが泣き声を上げたとき、「よかった!」と
今までの緊張が外れて全身の力が抜けるのがわかります。
気がつくともう明け方になっており、疲れた身体を引きづって医師室へ向かいます。
そんな時、湾の向こうの宗谷丘陵から登り始めた朝日が病棟の廊下に明るく差し込んでいる
幻想的なシーンにぶつかることがあります。
そんな時は、自然の摂理としての命の誕生に立ち会えた喜びを実感します。
そして、急いで家に帰り少し仮眠をして外来診療に備えるのでした。
あの激務は、若いからこそできたのであり今では絶対にできないでしょう。
また、稚内は次男が生まれた場所でもあります。
その意味でも、私にとって稚内は特別な場所です。
幸い、お産扱いをしてくれる義母が間に合わないほど経過は順調でした。
前日の夜から陣痛が始まり、朝の7時に無事次男を取り上げました。
朝のこの時間は、看護師さんが一番忙しく手が足りない時間帯です。
このとき私は、産科医と、産婦の夫と、助産師と、むずがる2才の長男をあやす父親の四役を
同時にこなしたことを覚えています。
よく「自分の子供を取り上げるのは怖くないですか?」と聞かれることがあります。
実は全く逆で、自分の子供であれば何が起こっても最後まで自分で責任を取れるので、
まったく怖くない、ストレスのかからないお産なのです。